前田司郎「愛が挟み撃ち」
前田司郎の描く青春が好きである。
青春には可能性が無限に開かれている。比喩として量子的で、Aでありながら、NotAでもある状態こそが青春だ。その性質は、言葉にすると失われてしまうもので、さらにはAではなくA’のように違うものとなる。
言葉にした途端、それは言うべき何かから別のものになってしまったようでもあり、逆にそれがまさに言いたかったことのようにも感じた。
――前田司郎「愛が挟み撃ち」
新しい小説「愛が挟み撃ち」は、中年夫婦の青春小説である。中年夫婦にとって、もっとも可能性に溢れているものは子供である。しかし、彼らには子供ができない。夫の俊介は精子を作れないからだ。そこで、彼らは夫の親友の水口を頼ることになる。妻の京子は、かつて水口に恋していた。出会いの回想から奇妙な三角関係に至る中で、言葉にしあぐねる恋や愛といった青春が描かれる。
僕はこの秘密を外に漏らすことで、何か復讐しているような気持ちになっている。
――前田司郎「夏の水の半魚人」
結局、言葉にできないことは身体的なコミュニケーションによって図られる。そのために、前田司郎の小説には、ある種の大雑把に言ってエログロ的な描写が付随する。三島賞受賞作の『夏の水の半魚人』では、主観人物が小学生だったからまだ良かったが、「愛が挟み撃ち」では中年夫婦であり、不妊を乗り越えるということ生々しさが伴う。
生まれ来る子供という可能性の象徴を描ききる、ラストの怒涛の3ページは衝撃が強い。僕は、言葉にしあぐねる青春が、言葉によって表されるこの小説を好むが、青春を抱えたまま中年になるのは、ただただ嫌だなと思う。