僕帝国幻想

見知らぬ場所にいる人間には、どうして憧れてしまうのだろう

沼田真佑『影裏』

僕が芥川賞を読むのは、だんだんと義務感によってきた。半年に一度の賞で、毎度、新人の傑作が現れるようには思えないからだ。
最新の受賞作、沼田真佑の『影裏』は、文學界新人賞のデビュー作で芥川賞となった。しかし、小説の優劣とは関係なく、芥川賞の受賞作の連なりの中では、極めて地味な作品である。こういった小説を引き上げることができるのは、半年ごとに賞がある良い点でもある。

『影裏』は小さな小説である。
小説は、かつては文字通り、小さなものだったのかもしれない。でも、いまや小さな小説なんて誰も読まない。地味だからだ。そもそも小説なんて誰も読まないものになりつつある。その理由も地味だからだ。
小さな小説では、大部が省略される。必要最小限の配役と背景描写で書かれる。この小説でいえば、冒頭の渓流釣りの場面で必要最小限が描かれる。
岩手の美しい自然と、釣り友達の男の性格である。雄大な自然の中での友人との関係の物語なのだなとわかる。(正確に言えば、読者が小さな小説だと認識してからである)

このような冒頭での理解が、小さな小説の弱みである。関係性から先の展開がなんとなく予想されてしまうのである。
作者が何を省略し、過不足なく小説とできるかは、読者の持つ背景知識に依存する。たとえば、ある小説に曖昧な距離感を持つ男女が出てきたら、読者は男女関係の話と察することができる。
簡単に先読みできてしまうことと、読者の理解によって省略が可能になることのあいだで、橋渡しすることは、作家にとっての大きな仕事である。
そこで、主人公がゲイであることが仄めかされる。すると、小さな小説の定跡が別の定跡へと外れて、省略された大部に、読者の異なる想像力が働く。
これもまた何が省略されているかの想像は、読者に委ねられる。そのため読者の時代的、空間的なリテラシーにより、大きく理解が異なる。
では、このあとの展開には、冒頭から予測されている友人のカタストロフィーがあるが、そこからは何が見出されるのだろうか? それがこの小説を読ませる駆動力となる。

 

親密なつき合いのうちにも、日浅のその、ある巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向はいっこうに薄れる気配がなかった。(略)ものごとに対し、共感ではなく感銘をする、そういう神経を持った人間なんだとわたしは独り決めにして面白がっていた。

 

小さな小説の面白さは、こういった省略された事柄への理解にある。ただし、一方では、ある種のエリート主義にも見える。描かれていない全てを知っているように感じられるからだ。

芥川賞の選評の中で、吉田修一の評がもっとも率直で良く思えた一方で、村上龍の評は「わかってる」読者の代表のように見えた。
僕がこのようにして感想を書いているのは、残念ながら村上龍的な態度に近い。
思い巡らす想像力に対して、本文中の言葉を借りて、「共感よりも感銘をする」。
『影裏』は良い小説である。マイノリティの主人公の想像もかき立つ。しかし「感銘をする」という距離感を超えるまでには至らなかった。どうしても地味な小説は物足りないのである。

 

影裏 第157回芥川賞受賞

影裏 第157回芥川賞受賞