僕帝国幻想

見知らぬ場所にいる人間には、どうして憧れてしまうのだろう

『しんせかい』山下澄人

最新の芥川賞作、山下澄人の『しんせかい』は、幻のような小説である。

似ているような小説がほかにありそうだけどない、新奇な小説で、芥川賞にはふさわしいように思う。

あらすじは青春小説そのもので、また主人公の名が作者の名である通り、私小説でもある。

 19歳の山下スミトは、俳優を目指し北海道へと渡る。【先生】の塾で学びながら、同期生らと【谷】で農作業や自分たちの住む家を建てたりといった共同生活を過ごす。

 物語は非常に読みやすく、【先生】からの学び、【谷】での同志らとの生活、故郷にいる女友達との関係、の3つの筋が順番にらせんを描きながら進んでいく。

一方で、細部には記憶の曖昧さや、時空間の飛躍が引っかかる。曖昧さは、作中の事実や人間関係への影響だけでなく、小説全体へと次第に波及していく。スミトは谷の人間関係に対して淡白で、自身のことにも曖昧で傍観者のようにいる。

青春小説では、登場人物の何らかの変化の過程を描くものとして期待される。しかし、スミトのこのような態度からは、青春小説的な変化は見出されず、期待は裏切られる。(青春小説の形をとりながら、その要素を否定していくところは、山下と同じように劇作家出身の前田司郎の青春小説『愛でもない青春でもない旅立たない』という題名通りの作が思い出される)

私小説という面においても、自分自身のことならばはっきりと書けるはずなのに、冒頭の場面から記憶の曖昧さを書いている。また自身の事実を振り返るという視点を直接的に持たない。最終的には、私小説であることを否定する。でも、主人公は自身の名前だし、本の題字は【先生】であるところの倉本聰が書いている。

青春小説であり私小説であるかのように書かれて、そうではないといった仕掛けは、作者の経歴を青春小説の形をとった作り話に置き換えたというふうに言える。あえて、青春小説でもなければ、私小説でもないようしたのは、どうしてだろう?

 

この疑問を別の作家と比較して考えてみたい。

芥川賞からは忘れられている作家である青木淳悟は、あらゆることを小説に変えることのできる、マジシャンのような小説家である。三島賞受賞作の「私のいない高校」は、留学生の受け入れ記録を小説にしたものだし、グーグルストリートビューを題材にした「Tokyo Smart Driver」のような小説もある。彼の手にかかれば、小説にできないものなんてないといった風で、そのことを通じて小説とはいったい何なのかと混乱させられる。

青木の場合、その元ネタに対して、小説らしさという輪郭をなぞって書く。ただし、その小説らしさというのは小説によって違うわけなので、一筋縄にはいかない。たしかに小説らしいのだけれども、小説らしさを作る要素を、決まりきって分けることはできない。(いつか日本語小説家人工知能を作るなら、青木淳悟AIを目指すべきだ)

何かを小説に置き換えるというプロセスによって書く場合、どのようにして小説にするのかは作家は意識するはずだ。エッセイなどにしてもよく、小説とする必然性を求めるからだ。青木の「私のいない高校」を例にとれば、学校の記録であって小説じゃないだろうというところから、小説の定義っていったいなんだろうという表現の広がりが生まれる。

 

さて、「しんせかい」に話を戻すと、青木の試みる小説とは似ているようで正反対のように思う。小説を目指して書かれた結果、青春小説の表現や私小説の導入といった枠組みから、いずれ枠が外れていく小説になっている。

そう考えると、青春小説なのに青春していないとか、私小説なのにそうじゃないといった反応をするべきではなく、そのような輪郭を外していく技巧的な小説である(つまり失敗したら怒られる種類の小説)。

「しんせかい」は見た目に反して、青春小説でもないし、私小説でもない。曖昧さによって描かれたつかみどころのない幻のような小説なのである。

 

しんせかい

しんせかい