僕帝国幻想

見知らぬ場所にいる人間には、どうして憧れてしまうのだろう

はじめて読むドラッカー

「成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」

 

僕がドラッカー(1909−2005)に触れて、強い印象を受けたのは、『マネジメント』における上記の一文である。
ドラッカーを読んだ事がなく、昔のビジネス書の書き手と思い込んでいたが、強い政治的目的が根本にあった。
ウイーンで生まれ、ナチス支配のドイツからイギリス、アメリカへと移ったというドラッカー自身の経歴から書かれているものが大きいのだろう。

自由な個人が、自由な社会を作る。
個人には、社会における位置と役割があり、その正統性を担うものとして組織がある。このボトムアップアプローチとして、マネジメント論がある。マネジメントの語感の与える印象とは異なり、上に立って実践するものだけではない。
ドラッカーを読む価値があるのはマネージャーだけではなく、責任あるビジネスマンならば誰でもだ。まして、ドラッカーのいう知識労働者に当てはまるのならば尚更である。

『はじめて読むドラッカー自己実現編】 プロフェッショナルの条件 ――いかに成果をあげ、成長するか』は、タイトル通りちょうどはじめて読むにはピッタリの本である。
マネジメント論が要請されるまでには2つの軸があり、時代的な社会環境から通じる希少な資源としての知識と、自己啓発的な個人の強みを生かす方法から成る。

本書のPart1「ポスト資本主義への転換」「新しい社会の主役は誰か」では、時代的な変遷から、現代では知識労働の生産性こそが重要と説く。
資本主義と産業革命に至る技術革新の時代は長く、社会主義が予見され革命に至る中で、生産性が劇的に向上したのは技術革新自体ではなく、それが可能にした教育訓練による後期においてである。
科学的管理法の父といわれるフレデリック・ウィンズロー・テイラー(1856−1915)は、工程の標準化と教育訓練を通じて、近代の生産性の向上の礎を作る。
テイラーは、生産性の向上は、労働者が多くの収入を得るためとし、決して資本家のためといわなかった。
これが労働者の賃金上昇と余暇の拡大、教育や医療といった生活水準の向上につながる。ドラッカーは、社会主義の失敗は、このようにして革命を担うはずの労働者階級が中流になったためという。
しかし、テイラー自身は、資本家よりも労働者のためにしたものの、労働組合とは反目して、反資本主義者というレッテルを貼られることになるのだが。

さて、ドラッカーがポスト資本主義と呼ぶ現代に至ったのは、テイラーが達成したように知識を仕事に適用するようになり、さらに知識を知識が成果になることへと適用するマネジメントが重要になったからである。
さらなる技術革新が基礎となって、ポスト資本主義においては、土地・天然資源・労働・資本よりも知識が中心的な資源と成る。
その中で、知識が競争力の源と成るためにマネジメント論がある。組織の経営管理者、つまりマネージャーは「知識の適用と、知識の働きに責任をもつ者」として定義される。

では、知識を適用し、成果につなげるようにするにはどうしたらよいか。組織は、はっきりとそのためにある。組織は決して、組織自体のためにはない。そして、組織では個人が強みを生かし、組織自体もまた強みを生かすものとされる。
Part2以降では、そのために個人が実践できる方法が書かれている。
たとえば「目標は何かを問うことが重要」といった具合に、ここに至るとドラッカーは極めて当たり前のことばかりを言っているように見える。
だが、この根本には、自由な社会をつくるという政治的な目標があることを忘れてはならない。
社会があり、組織があり、そのための個人がいるという思想とは間逆である。また、企業についてであれば、利益を目指すという目標とも反対に考える。
個人には性質があり、強みと弱みがある。個人の強みを生かし、弱みを無効化するものが組織である。その組織を成り立たせる前提として、企業ならば利益があることが、組織の目的を継続して行うための責任である。
組織自体もまた社会の中で強みを生かすために単一の目的を持つものである。
そこでドラッカーが問うのは、「組織の使命は何か?」「顧客にとっての価値は何か?」ということである。

ポスト資本主義において、最も希少な資源である知識こそが競争力につながる。組織が知識を成果に向けて適用することがマネジメントであり、それは知識労働者たる個人が強みを生かし、弱みを無効化することである。
そうでなければ、希少な資源を浪費しているに過ぎない。
このことは、知識労働者により専門に先鋭することを促している。
専門家した知識労働者は、その専門において最も優れた意思決定者でなければならず、組織の中の役職によらない。
その意味で、知識労働者は意思決定者としての自身をマネジメントする術を覚え、行動とそれに伴う責任を実践し、成果につなげなければならない。また、専門分野を一般分野に通じるように知識社会の代表たりえなければならない。
そのような知識労働者を統括するマネージャーは、かつてであればゼネラリストとして様々な専門分野に通じた博学であったが、いまでは多様な専門分野に理解を示すことができる組織社会の代表者が求められる。(かつ、MBAといわれるような経営学分野の専門家でもある)

このように、ドラッカーのマネジメント論は、マネージャーだけではなく、知識労働者たる個人も範囲に含む。
現代において、もっとも希少な資源は、成果を出せる知識労働者である。
総括すれば、極めてシンプルに、個人や組織あらゆる単位において、強みを生かし、弱みを無効化することにある。
個人にとっても、強みを生かすことは社会における位置と役割を築き、尊厳となるものである。
次世代を担う教育ある人間はこれを理解し、知識社会と組織社会の両方に通じ、橋渡しできる人物であるだろう。
その一方で、ボトムアップアプローチによる専門の先鋭化では、それぞれの組織が強みを生かしながらも、競争し合う場面で、社会の利益を定義することは困難である。
しかし、ドラッカーは自主性のある自由な個人を信じているように見える。
ドラッカーマーケティングを必要としない。「顧客の価値は何か?」と問うことから、需要が生まれるからである。また、変化に対する最善の対応は、変化は自身が作り出すものとする。NPOのための組織論に筆が向いたこともある。
僕には、ドラッカーは理想論に振りすぎているように見える。しかし、技術革新が現在の世俗主義に流れるものだとすれば、一方に成果を出そうとしている人々が理想論に基づいて意思決定をするならば、それは善きことなのだろうとも思うし、それゆえに実践しようという気にもなる。