僕帝国幻想

見知らぬ場所にいる人間には、どうして憧れてしまうのだろう

あいちトリエンナーレ2019

お盆休みに、あいちトリエンナーレへ行った。
トリエンナーレというのは3年ごとに開かれる芸術祭のことで、今回で4回目である。
僕が観に行くのは今回が初めてである。
 
名古屋市美術館の展示の冒頭、藤井光の映像作品は、戦中の日本統治下の台湾を映したプロパガンダ映画と、
いまの若者を演者とした再演VTRを並行して映す。
時間によって隔絶し、リアリティを失って見えるものを、若者が演じるというのは、
あいちトリエンナーレの総合テーマの「情の時代」を表すかのように、共感を通じさせる。
モニカ・メイヤーの男女不平等を可視化していくプロジェクトは、さまざまな意見を掲出する場となっていた。
不平等やセクハラをめぐる匿名の意見が多様に出ていたが、8/20から展示が変わったようだ。
アンケート用紙は回収され、白紙が床に散りばめられた様子に変わった写真記事を見ると、
まるで意見が封殺されているかのように見える。
愛知芸術文化センターの入口にあるピア・カミルの作品は、多数のバンドTシャツで作られた巨大な幕だ。
スピーカが取り付けられていて、サカナクションが流れていたが、これも幕があげられ、無音になってしまったそうだ。
 
HPのトップにある、ウーゴ・ロンディノーネの座り込んだり寝そべったりする多数のピエロは、
生気はないのに、動き出したらどうしようと思わせる迫力がある。
ひとつひとつ見ていくと、これは他人から見た、自分自身の一側面なのだと想像力を起こさせる。
ピエロのような他者への通じなさ、わかりあえなさを、わかることはあるのだろうか。
この作品はまだ見れるそうだが、展示中断が協議されているようだ。
 
物理的な意味でもっとも強烈だったのは、タニア・ブルゲラの部屋である。
入場時に手に押されるスタンプは、2019年の世界の難民の数を示す。ただの数字だ。
しかし、その先のカーテンと扉を経て入る部屋には、メントールで充満しており、強制的に入室者に涙を流させる。
ただの生体反応だ。だが、共感を強制する。
そこに共感を感じることは、想像力を持つことでもあるが、自由でもない表裏関係にある。
これもまた展示は中断してしまった。
 
言わずもがな、こうなってしまったのは、「表現の不自由展」の問題があったからだ。
僕としては、運営側(今回の芸術監督の津田大介)が政治的題材として芸術表現を取り上げて、
それに対して政治的に右派の応酬があったという見方をしている。
河村たかし他、反発する側のほうが文脈をより捉え損なっているが、どちらの側も本末転倒である。
芸術表現が、政治的態度ほかのすべてに先んじているはずなのに、取り扱いを間違えている。
 
「連帯を示すために」。展示室閉鎖、内容変更に見る「あいちトリエンナーレ」海外作家たちの態度表明
あいちトリエンナーレ津田大介芸術監督インタビュー