僕帝国幻想

見知らぬ場所にいる人間には、どうして憧れてしまうのだろう

筒井康隆『ニューシネマ「バブルの塔」』

『だから僕は音楽をやめた』というヨルシカの新しいアルバムに鮮烈な印象を受けた。
時代を区切ろうとするティーンエイジ的オールオアナッシングな考えで、元号の節目とする態度が見えたと思うと、文学に目を向ければ大御所の筒井康隆が平成最後の大傑作という枕詞で書いた『ニューシネマ「バブルの塔」』は、新時代に文学を何とか生き長らえさせようとする、この一点に賭けるという意味で似たような強烈さを持った小説だった。
 
僕は文学が好きだ。
現代文学こそ時代の最先端を著しているものだと、いまだに思っているが、文学は時代遅れだという声によって滅びる間際であるとも思う。
その中で、筒井康隆が文芸誌にこの数年で発表しているのは、メタフィクションであったり、パラフィクションと名付けられた小説群である。
最新作の『ニューシネマ「バブルの塔」』は、ダジャレをベースにした「時をかける詐欺師」といった具合の小説で、メタフィクションの主張が強い。
メタフィクションにおいては、大小の程度の差はあるが、批評を先取りするようなところがある。
(この小説では、それは大いにあり、そのため、これをことを書いていること自体が蛇足ではある。)
批評をややこしくさせるするのは、表裏どちらともいえるという解釈を盛り込むことにでなる。
表が小説の本筋だとしたら、裏はそれを書いている作者の影であり、それが基本的なメタフィクションの手法となる。
この小説では、表は、時をかける詐欺師が、さまざまな残虐的殺害を、どうしてか文芸批評的な背景をもって続ける。
裏では、文芸批評的な背景を茶化す作者が現れる。
その両面は、「詐欺的文学の世界」と「文学的詐欺の世界」である。
メタフィクションの手法は、もちろん、小説的なところから、俯瞰したところへと立ち上がっていく。
それは、「詐欺的文学の世界」から「文学的詐欺の世界」へと、昇華してことになる。
 
(筒井康隆『ニューシネマ「バブルの塔」』 新潮 2019.4)
 

 

唐突に始まる、文学的詐欺のメンバーをリストアップした、名前の羅列は、最初に町田康から始まる。
文学マニアには、本当に壮観で痛快で腰を抜かす。
新しい時代の文学に賭ける名前を、あえてさらけ出す。
文学を勝手に代表するおかしみがあって、彼らをパワハラめいたパラフィクションに巻き込んで、平成最後の新潮の巻頭に据えてしまう。
老人のやりたい放題である。(石原慎太郎は選外である)
ただ、これだけダジャレをやるなら、多和田葉子がリストにないのは、誠に遺憾に思う次第である。
はてさて。いったい、新時代の文学はどうなるのか。
 
というのは、嘘で、単に面白がっているだけでもある。
 
ただ、私自身は死んでます。孫がどんな目に遭おうが、こっちは死んでいるんだから悲しみようがない。
筒井康隆「作家人生を語る」 文学界 2019.3)
 

 

(新潮に掲載された、この次の中原昌也の小説はには、かつて「怪力の文芸編集者」で筒井康隆に強烈なインスパイアを与えたにもかからわず、先のリストからは外れ、小説自体も平成に取り残されたかのような、そういう作風といえば、そうともいえるような感じで、奇妙な読後感を持ったのであった。)

 

 

新潮 2019年 05 月号 [雑誌]

新潮 2019年 05 月号 [雑誌]