僕帝国幻想

見知らぬ場所にいる人間には、どうして憧れてしまうのだろう

筒井康隆『ニューシネマ「バブルの塔」』

『だから僕は音楽をやめた』というヨルシカの新しいアルバムに鮮烈な印象を受けた。
時代を区切ろうとするティーンエイジ的オールオアナッシングな考えで、元号の節目とする態度が見えたと思うと、文学に目を向ければ大御所の筒井康隆が平成最後の大傑作という枕詞で書いた『ニューシネマ「バブルの塔」』は、新時代に文学を何とか生き長らえさせようとする、この一点に賭けるという意味で似たような強烈さを持った小説だった。
 
僕は文学が好きだ。
現代文学こそ時代の最先端を著しているものだと、いまだに思っているが、文学は時代遅れだという声によって滅びる間際であるとも思う。
その中で、筒井康隆が文芸誌にこの数年で発表しているのは、メタフィクションであったり、パラフィクションと名付けられた小説群である。
最新作の『ニューシネマ「バブルの塔」』は、ダジャレをベースにした「時をかける詐欺師」といった具合の小説で、メタフィクションの主張が強い。
メタフィクションにおいては、大小の程度の差はあるが、批評を先取りするようなところがある。
(この小説では、それは大いにあり、そのため、これをことを書いていること自体が蛇足ではある。)
批評をややこしくさせるするのは、表裏どちらともいえるという解釈を盛り込むことにでなる。
表が小説の本筋だとしたら、裏はそれを書いている作者の影であり、それが基本的なメタフィクションの手法となる。
この小説では、表は、時をかける詐欺師が、さまざまな残虐的殺害を、どうしてか文芸批評的な背景をもって続ける。
裏では、文芸批評的な背景を茶化す作者が現れる。
その両面は、「詐欺的文学の世界」と「文学的詐欺の世界」である。
メタフィクションの手法は、もちろん、小説的なところから、俯瞰したところへと立ち上がっていく。
それは、「詐欺的文学の世界」から「文学的詐欺の世界」へと、昇華してことになる。
 
(筒井康隆『ニューシネマ「バブルの塔」』 新潮 2019.4)
 

 

唐突に始まる、文学的詐欺のメンバーをリストアップした、名前の羅列は、最初に町田康から始まる。
文学マニアには、本当に壮観で痛快で腰を抜かす。
新しい時代の文学に賭ける名前を、あえてさらけ出す。
文学を勝手に代表するおかしみがあって、彼らをパワハラめいたパラフィクションに巻き込んで、平成最後の新潮の巻頭に据えてしまう。
老人のやりたい放題である。(石原慎太郎は選外である)
ただ、これだけダジャレをやるなら、多和田葉子がリストにないのは、誠に遺憾に思う次第である。
はてさて。いったい、新時代の文学はどうなるのか。
 
というのは、嘘で、単に面白がっているだけでもある。
 
ただ、私自身は死んでます。孫がどんな目に遭おうが、こっちは死んでいるんだから悲しみようがない。
筒井康隆「作家人生を語る」 文学界 2019.3)
 

 

(新潮に掲載された、この次の中原昌也の小説はには、かつて「怪力の文芸編集者」で筒井康隆に強烈なインスパイアを与えたにもかからわず、先のリストからは外れ、小説自体も平成に取り残されたかのような、そういう作風といえば、そうともいえるような感じで、奇妙な読後感を持ったのであった。)

 

 

新潮 2019年 05 月号 [雑誌]

新潮 2019年 05 月号 [雑誌]

 

 

『ゼロからトースターを作ってみた結果』

平成が終わろうとする今、歴史にとても惹かれている。
僕は近ごろ、歴史の本ばかりを読んでいる。
この一冊は最高の歴史書だった。
トーマス・トウェイツの『ゼロからトースターを作ってみた結果』である。

 

ゼロからトースターを作ってみた結果 (新潮文庫)

ゼロからトースターを作ってみた結果 (新潮文庫)

 

 

 
本書は、文字通りの一冊で、著者が500円で買ってきたポップアップ・トースター、つまりパンが焼けたら飛び出るアレを、ゼロから自作するという本である。
それが何の歴史書かといえば、たった500円のトースターを自作することが、途方もないの歴史を経て現代の文明社会に至っていることを実感できるからだ。
 
さて、さっそくトースターを分解してみよう。
プラスチックでできた筺体や、タイマーのついた電子回路、もちろんパンを焼くためのヒーター。
さまざま100種類以上のパーツがある。
ゼロからそれらを全部作るなんて無理だ。
そこで、最低でも、真っ当なトースター的なトースターを作るために、素材を5つに絞り込むことになる。
鋼鉄、マイカ、プラスチック、銅、ニッケルである。
 
じゃあ、最初に鋼鉄を作ろう。
たとえば、現代の製鉄を見ると、とんでもなく集積的な産業となって、鉄鋼製品が作られていることがわかる。
 
でも、ゼロから作るは、鉄鉱石を掘ってくるところから始まる。
そして、庭で製鉄をする。
それには現代の製鉄技術は役に立たない。現代人は、庭でバーベキューはしても、溶鉱炉は作らないからだ。
トーマスは科学史図書館で、16世紀にラテン語で書かれた技術書を見つけ出し、500年前の技術で精錬を試みる。
この結末はとても興味深いので、ぜひ本を読んでほしい。ばかげた図解もたくさんあって、面白い。
 
この本は全編こんな感じで、途方に暮れる素材集めばかりだ。
プラスチックは、もちろん石油から作ろうとする。ヒーターとなるニッケルなんて、いったいどこにあるのか、といった具合だ。
文明社会は、数えきれないほどの知らないことの積み重ねで成り立っている。
それを思い知るように、500年前の製鉄を実践するように、歴史を行き来して、トースターを作ってみる。
 
 
リープフロッギングという言葉がある。
新興国で科学技術が歴史的な発展段階を経ないで、最新技術を活用するようになる現象のことを指す。
本書を読んで体感するのは、まさに逆説的なリープフロッギングにほかならない。
僕たちは、いま使っている技術がどのような階段を上って作られているのか、すべてを知らない。
グローバリゼーションでは、長大なサプライチェーンがシステムとなっている。
もちろん、僕たちもそのサプライチェーンのひとつの歯車であり、末端の消費者でもある。
安いトースターを分解して、原料である鉄鉱石や石油へさかのぼっていくことで、現代から歴史をたどっていく。
そういった意味では、技術の歴史も、なぜだかこのように至った一連なりのサプライチェーンともいえる。
 
僕が読後一番に抱いた思いは、リープフロッギングを理解できている人は、本当には少ないのだろうということだった。
また、理解できれば、社会的により重要な仕事ができるのだろうということも思う。
リープフロッギングにおいて特徴なことは、その技術や慣習が、突如として所与のものとして現れることである。
たとえば無線通信を考えてみよう。
電話線や電線さえないような地域において、電波塔が立って、皆がスマホを当たり前に使うというようなことである。
新興国における、こういった現象は想像しやすいことであるが、先進国においても起こることである。
ただし、先進国におけるリープフロッギングは、これまでの歴史的な発展の延長線上の、はしごをはるかに飛ばしたところにあり、予測困難なことである。
(こうしたことを考える人が、ビジネス用語でいうところのビジョナリーと呼ばれる人たちである。)
歴史を知るということは、このはしごを一段ずつ理解していくことなのだと思う。
 
本書のような歴史書を読み漁っているうちに、ひとつの仮説が思い浮かんだ。
歴史というのは、リープフロッギングありきで発展していったのではないか?
発明やビジョン、別の地域からの輸入という形で起こり得る、技術的な飛躍がある。
たとえば、鉄砲伝来から織田信長の火縄銃戦術は、まさに日本の歴史を変えた事象である。
その時点において成し遂げられない発展を、技術や慣習の進歩を通して、はしごのステップを埋めて上っていくようなプロセスがあるのではないか。
だとしたら、必要なことは、そのような挑戦的な課題に対して、それを実現させることに対するインセンティブを促す制度ではないだろうか。
 
技術史を紐解いていくと、偶然にそうなったという事象はよく見られる。
(代表的には、キーボードのQWERTY配列が挙がる。)
そして、リープフロッギングを実現させるプロセスは、いくつか考えられるルートのうち、たまたまそうなったという発展に最適化される形で現れる。
ひとたびリープフロッギング現象が起こると、そこにはとてつもない需要が生じる。
製鉄における高炉はまさにそうしたものである。急激な鉄鋼の需要に応える形で高炉ができた結果、自宅の庭で鉄を作るには、中世の知識に頼ることになる。
「もし、それが実現したら?」を現実化するために段階を踏むことが、現代のビジネスである。
それは科学技術にとどまらず、慣習や文化、ライフスタイルの発見にもつながる。
リープフロッギングが起こることは、自明であると考えるならば、僕たちが行動すべきことは、未来がそうあったならば、自分自身はどうすべきかということになるだろう。
それは、Amazon創業者のジェフ・ベゾスがいうところの「後悔の最小化フレームワーク」にほかならないのである。

 

描きおろし漫才「4文字カタカナバンド」

ボケ&ツッコミ「どうもー、よろしくおねがいしまーす」
 
出囃子とともに手をたたきながら入場。
 
ツッコミ(T)「やあやあ言うておりますけど、漫才やっていきたいと思います」
 
ボケ(B) カッコつけたポーズ
 
T「そんなアーティスト気取りの格好して、どうしたん」
 
B「いや、わし、漫才師よりもミュージシャンになりたい思ってんねん」
 
T「わし、言うてるのにか。漫才やっていこうや」
 
B「まあ、見た目はこんなんやけど、おしゃれな名前あったら、これもカッコよく見えてくると思うんや」
 
T「うーん」
 
B「だから、わしのために、何かカッコいいアーティスト名をつけてくらんか」
 
T「くらんか」
 
B「ほら自分、いつもバイトさぼってヘッドホンつけてるやん」
 
T「それ、コールセンターのバイトだから」
 
B「時給19円な」
 
T「安! 919円や、ケタおかしいやろ」
 
B「919円でクイックと覚えて帰ってください」
 
T「いやいや、覚えんでええわ」
 
T「でも、最近おしゃれな4文字のカタカナのバンド増えているんですよ」
 
T「本当ですよ。例えば、ハスピエ」
 
B「ハスピエ。聞いたことあるわ」
 
T「バンドじゃなくても、バルーン、スカート、ヨルシカ、アンテナ。知ってます?」
 
B「わからん。申し訳ないけど、全然知らん。たぶん、頑張ってるとは思う」
 
B「わし知っとるの言えば、ミスチル、ドリカム、コメコメや」
 
T「米米CLUB」
 
B「あと、ユーミン、クイーン。ザ・ブーム
 
T「島唄
 
B「ちゃうねん、ちゃうねん。わしはおしゃれ感が出てるよりも、なんというか、もっと硬派なほうがええねん」
 
B「氣志團みたいな感じがカッコいいんちゃうかな」
 
T「3文字系かー」
 
B「3文字系?」
 
T「漢字3文字の名前の人たちのこと、まとめてそう言うんや」
 
B「ほんまかいな」
 
T「たとえば、秦基博
 
B「たしかに3文字やけど、そんな硬派じゃないけどな」
 
T「じゃあ、小林旭
 
B「どうぅも~、小林旭で~~す」(モノマネ)
 
 
B「って、誰も知らんわ!」(ノリツッコミ)
 
B「お客さん、わかる、小林旭? けっこう似てんねんで」
 
T「布施明
 
B「♪バラより美しい~」
 
B「って、さっきよりシラケとるわ」
 
T「♪ああ、きみ~は~」
 
B「♪変わった~」(モノマネ)
 
B「だれも笑っとらん」
 
B「わし、あきらじゃねえし」
 
T「一青窈
 
B「♪ええぇーーいぃーーああああー」(前のめりでモノマネ)
 
B「って、硬派じゃないやろー、むしろ軟派のほうや!」
 
B 片足あげて靴を勢いよく脱ぎ捨てる!
 
T「裸足やん!」
 
B もう片足も脱ぐ。裸足。
 
B「一青窈嫌いやないねん。むしろ、好きや」
 
B「だから、数字入っているのはリスペクトでいいかもしれん」
 
T「一のことかー」
 
T「じゃあ、次は二文字いってみるか」
 
B「二文字はそんなんおらんやろ」
 
T「ゆず」
 
B「すぐおったね」
 
T「B’z」
 
B「無理ない?」
 
T「U2
 
B「おぉ! 数字、入っとるやん」
 
T「どや」
 
B「たしかに、わし、U2になりたかったかもしれん」
 
T「なりたい?」
 
B「じゃあ、U2やるから」
 
B「わしがボノで、自分エッジな」
 
T「ええけど、しかたないな。お客さん、U2知ってる?」
 
二人、舞台袖の際まで下がる。
もう一度拍手しながら登場。
出囃子は"Vertigo"のイントロ。
 
ボノ&ジ・エッジ「どうもー、よろしくおねがいしまーす」
 
ボノ(B) 手を挙げて「ボーカルのボノでーす」
 
ジ・エッジ(T) 手を挙げて「ギターのジ・エッジでーす」
 
ボノ&ジ・エッジ「二人あわせて、U2です! よろしくおねがいしまーす」
 
T「って、漫才やん!」
 
B「いい感じだったやん」
 
T「いやいやU2は4人組バンドや」
 
B「二人でもええで」
 
T「だめだめ、怒られるわ。諸外国中から。裸足やし」
 
B「あっ、いま、わし、完璧なバンド名思いついたわ」
 
T「二文字で数字の入ったやつ?」
 
B「19や」
 
T「いや、それ俺の時給やん」
 
T「って、もうええかげんにしろ」
 
ボノ&ジ・エッジ「どうも、ありがとうございましたー」
 
二人、頭を下げて退場
 

秋の現代美術館めぐりpart1

岡山を拠点にして、美術館巡りの旅行へ出かけた。

豪雨災害のあと、ふっこう周遊割という支援があって、岡山・広島を中心に、旅行費用を一部負担する制度ができたので、これを利用した。北、南、西へ、3か所の現代美術館を訪れた。

 

1.奈義町現代美術館f:id:kimosabi:20181001210757j:plain

奈義町/現代美術館トップ

 

旅の目的のほとんどがこの美術館に行くことだった。とんでもなく山奥の田舎にあるが、実際に行ってみて、一度は行くべきとオススメできる、素晴らしい美術館だった。

建築と一体化した3つの作品が展示されている。展示を観るというよりは、建築空間の体感である。象徴的な、バカみたいにでかい横倒しになった太鼓のような巨大建造物は、荒川修作+マドリン・ギンズの≪遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体≫である。美術館を通り、地下のらせん階段を上ると、その中へと入ることができる。

奈義町/「太陽」の部屋 ≪遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体≫

僕が入った時には、ただ一人だけで、この空間に佇むということを堪能できた。

ほかの2つの展示についても、そこにいるということを占めることができた(田舎すぎて、客がほかにいないのだ)。美術品を独り占めるというのは、なんとも贅沢なことである。成金が美術品に手を出すのはこういうことなのだろうか。

美術館には、町の図書館が併設されている。最上階に広い天窓が開いた、本の傷みやすそうな建築である。そこから太鼓を見渡せる、小窓のついた、とても眺めの良い一席があった。素晴らしいのだが、その席を囲う書棚はマンガ棚で、名探偵コナンとかが並んでいる。そういう図書館だから、蔵書の保管とかは関係ないのかもしれない。コナンを読む子供たちは、大人になったときに、この場所の特別さに気づくときがくるのだろうか。

さて、この美術館は岡山県奈義町という、山陽と山陰のあいだの山奥にある。岡山からは、最寄り駅の津山までJRで二時間弱。そこから一時間に一本の路線バスで、一時間弱。もし、車で行ったとしても、主要都市からはアクセスしにくい、ドがつくド田舎である。

付近にコンビニなんてあるわけなく、美術館以外には何にもない。一時間に一本しかない帰りのバスを呆然と待っていたが、せめてバス停にはベンチを置けと思った。

帰りに津山駅の辺りで、なにかうまいものを食べようと思ったが、田舎なので駅前にファミレスが一軒あるだけだった。

駅にホルモンうどんのポスターが貼ってあったが、そんなものはどこにもなかった。

岡山駅に着いて、デミソースカツ丼を食べた。美味であった。

 

2.丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

f:id:kimosabi:20181001213139j:plain

MIMOCA 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

 

丸亀駅前にある、猪熊弦一郎を記念した現代美術館。猪熊自身が監修した美術館で、人々が気軽に寄れるように、駅前に建てられたとのことだ。

このときの常設展は「美術館は心の病院」と題されていて、建物だけでなく、コンセプトも開かれた美術館であるということがよくわかる。天気が悪かったが、遠足の幼児たちが観に来ていて、学芸員の話をよく聞いていた。子供たちのためにも作られていて、本当に町のためにある美術館という印象で、素晴らしい環境に思える。

 

客も少なかったので、雨がやむのを待って、ゆっくりと絵画などを鑑賞してから外に出た。香川県に来たのは、生まれて初めてだったので、どうしてもさぬきうどんを食べたいと思った。いわゆる、本当のさぬきうどんを食べたことがなかったからだ。

丸亀といえば、丸亀製麺である。しかし、駅の周囲には丸亀製麺が見当たらぬ。駅前のアーケードを通るが、食堂、ラーメン屋ときて、あとは民家が並ぶのみである。外壁だけペンキを塗り建てた公衆便所がアーケードの終わりにあり、かつて食堂だったぼろい建物の、そのドアの部分にサントリーの自販機がはめ込まれていた。

そこから折れて、丸亀城方面へと向かう、別のアーケードへと入っていったが、ほぼ廃墟であって、うどん屋など一軒もない。その先には、ドンキホーテとパチンコ屋の巨大なコンプレックスがあった。雨もやんだから、高台にある丸亀城のふもとまで行ってみたが、うどん屋どころか食べ物屋の一軒もない。

道中には、路上駐車を禁ずる、「とり奉行ほねつきじゅうじゅう」の絵が描かれた看板があったが、そのような鶏肉屋も見かけることはなかった。「とり奉行ほねつきじゅうじゅう」は、うちわを仰ぎながら、亀を散歩させていた。この町は終わっているなと、素直に思った。

結局、道を引き返し、アーケードの中ころにあった、居抜きで何も飾らない、入り口の狭い窓にシールでラーメンと書いてある、中の様子はうかがい知れない、一応のぼりはあるから開いているだろうという店と、駅中にあるカレー屋しかほかにはなかった。カフェーはいくつかあったが、食べたいのはさぬきうどんであったので、あきらめることとした。美術館以外には、何一つ満足いかぬ町であった。

f:id:kimosabi:20181001214544j:plain

 

岡山から丸亀へと向かう車中、乗り換えた駅で巨大なイオンがあったことを思い出した。丸亀からアンパンマン特急に乗るのはやめて、快速列車で途中の坂出で下車することとした。

坂出駅前には、ファミレスが一軒あるだけだった。やはり、うどん屋はなかった。しかし、この駅には巨大なイオンがある。屋内駐車場だけで車は千台も止められそうなほどだ。駅の反対側には謎の金色の輪っかのような、15メートルは超えるだろうオブジェがあった。

おなかもすいたので、イオンへと歩いて行った。駅前にはほかに建物がないために、存在の際立つ廃旅館があった。イオンの隣には、口が開いて、内壁がすべて見通せる上に、平行四辺形に傾いている廃墟のプレハブがあった。イオンの中は、子供たちで賑わっていた。一階には、自転車屋とゲーセンとフードコートがあった。ほかに一軒のレストランがあった。しかし、うどん屋はなかった。

フードコートもよく見ると、ただの机とパイプ椅子がならんだ休憩スペースで、フードコート風に営業している、一軒の粉もの屋があるだけだった。うどん屋ではなかった。場所だけが余っていて、ゲーセンからつながっている無駄に広い駄菓子屋空間があり、その一角には卓球台が置かれていた。1人30分で200円であった。ここはイオンではなく、ジャスコであった。

ジャスコから出て、駅の反対側の金色のオブジェがある側へと行った。ファミレス以外にもあるかと期待したが、お菓子屋が一軒あるのみであった。駅の周囲には、巨大なジャスコと、まばらに立つ数軒のタワーマンションと、金色のオブジェがあって、小雨がばらついてきた。金色のオブジェには、銘板が備えられていた。銘板にはこのようにあった。

坂出市の未来を象徴するものとして記念碑を設置するものである。要した費用360億円。坂出市長某」

地方都市の地獄である。未来の地獄が具現化している。

結局、この旅のあいだ、うどんを食べることはかなわなかった。

 

f:id:kimosabi:20181001221704j:plain

 

3.広島市現代美術館

時代遅れの最低な美術館である。

この日、バスの一日乗車券を買い、ひろしま美術館を観て、広島市現代美術館へと行った。ひろしま美術館は、大変良かった。だから、期待を持ってしまった。それは裏目に出てしまった。

特別展は「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」であって、これは大変素晴らしかった。全五部になる《原爆の図》の巨大な屏風図が、複製三部も合わさって、凄まじい迫力で展示されている。これは大満足であった。

僕が最低と思うのは、この美術館の在り方である。

広島市内ながら、バスが一時間に一本しかないし、山の頂上に建てられている。しかも、バスから降りたところから、さらに坂道を上らなければいけない。最悪のアクセスである。車で来ようとしても、山の上にあるから、駐車場もろくにない。美術館から山の中腹までは、路肩駐車場である。嫌がらせのような立地である。馬鹿だと思う。

常設展を見たのだが、入り口にここは写真撮影可とあって、ジャコメッティの彫刻を撮影したら注意されてしまった。細かいルールがいろいろとあるらしい。先に言ってほしい。気落ちするが、こちらの落ち度だから仕方ない。

このときのコレクション展は「キノコ雲のある世紀」で、表題作はマンハッタンにキノコ雲を写した写真作品である(蔡國強の作品)。これを表立って置くなら、じゃあ、Chim↑Pomのピカッはあるのか、といえば当然ない。だって、この美術館が結局中止したんだから。かわりにはならないが、奈良美智村上隆がある。岡本太郎横尾忠則がある。別に悪くないけど、このコレクションでは、この美術館に特別な意味って無いと思う。

帰りも、一時間に一本のバスを待つが、定刻より3分過ぎていたので、もしかしたら先に行ってしまったのかもしれない。ほかに客がいればわかるものだが、そもそも美術館に客がいないからわからない。常設展は自分一人しか見ていなかった。バス停に電光掲示板を置いたほうがよい。

戻るにしても、また坂道を上らないといけない。バス停には、ベンチがない。ベンチを置け。雨が降っているが、屋根のあるところもない。客のいないようなところだから、当然タクシーもいない。こんなところで一時間待つのは勘弁してほしい。

幸い、数分後にバスは来た。

二度と来たくないし、絶対に人にはオススメしない美術館であった。

 

Part 2 はそのうち書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

乃木坂46のシンクロニシティを聴いたら自分がラップを好きと言えなくなるか、あるいは、Hip-hopなフリして自分とギリ生きている*1

 
僕は可愛い女の子が好きだ。
そして、ミュージカルが好きだ。
だから、乃木坂46の『シンクロニシティ』は聴き惚れてしまう。
聴けばすぐわかるように歌詞というよりミュージカル的な台詞だし、アイドルグループだから基本的に合唱する。
可愛い女の子がたくさん出てきて、ミュージカルみたいに歌う*2。それは本当に素晴らしい。ここ数日のヘビーローテーションである。
(ダンスは凝っているのにリップシンクのないMVは最低。秋元康の歌詞を映像で意味するのは、本当に意味ない。忖度MVといわれたとしてもおかしくない)
 
 
僕はミュージカルが好きだけど、ラップも好きだ。*3
そして、秋元康が嫌いだ。
だから、秋元康の歌詞でラップ風があると心底冷え冷えする。
自分がラップを好きなことが恥ずかしくなる。
欅坂46の『エキセントリック』が好対照だが、台詞部分はとても良いのに、ラップ風に歌われると引いてしまう。
こんなラップ風は控えめに言ってマジクソだが、『シンクロニシティ』には全くないからとても良い。
「76億分の1になった」*4って歌詞を1節で歌うなんて、ただの早口言葉じゃないか。
 
不快なところが見えなくなって初めて気づく。
僕は、ただ音楽に合わせて早口言葉を言っているのが好きなだけだったのか。
可愛い女の子が踊って合唱するのが好きなだけなのか。
それは僕の好きなミュージカルもラップとは何も関係ないのではないか。
そんな風に疑問が思い浮かんだら、なんとなくアイドルを好きになるよう人の気持ちに共感した。
(本質的にはどうでもいいところに、)自信の些細なこだわりを投影して見出すことに通じているのだ。
 
アイドルファンの気持ちを勝手に理解したところで、アイドルの話から離れて終わりにする。
僕のこだわる好きなところが一つに集まった名曲があるので、これだけ再生してほしい。
可愛い女の子たちが歌って踊るわけではないのだけど、
ラップもバンドもライブも最高に上がって、
台詞パートも早口言葉パートも合唱パートもそろった稀有な構成で、
果てしなく壮大、かつ矮小な曲な一曲である。
正直、こんな曲がもっと聴きたい! アイドルとは何も関係なくなった! 主におじさんになってしまった!
 
キリンジ feat. RHYMESTER 『The Great Journey』
 
 
 
 
*1 の子, フロントメモリー feat. 川本真琴
*2 乃木坂46のメンバーのひとり、生田絵梨花は本物のミュージカルスターだ

前田司郎「愛が挟み撃ち」

 

前田司郎の描く青春が好きである。

青春には可能性が無限に開かれている。比喩として量子的で、Aでありながら、NotAでもある状態こそが青春だ。その性質は、言葉にすると失われてしまうもので、さらにはAではなくA’のように違うものとなる。

 

言葉にした途端、それは言うべき何かから別のものになってしまったようでもあり、逆にそれがまさに言いたかったことのようにも感じた。

――前田司郎「愛が挟み撃ち」

 

 

新しい小説「愛が挟み撃ち」は、中年夫婦の青春小説である。中年夫婦にとって、もっとも可能性に溢れているものは子供である。しかし、彼らには子供ができない。夫の俊介は精子を作れないからだ。そこで、彼らは夫の親友の水口を頼ることになる。妻の京子は、かつて水口に恋していた。出会いの回想から奇妙な三角関係に至る中で、言葉にしあぐねる恋や愛といった青春が描かれる。

 

僕はこの秘密を外に漏らすことで、何か復讐しているような気持ちになっている。

――前田司郎「夏の水の半魚人」

 

 

結局、言葉にできないことは身体的なコミュニケーションによって図られる。そのために、前田司郎の小説には、ある種の大雑把に言ってエログロ的な描写が付随する。三島賞受賞作の『夏の水の半魚人』では、主観人物が小学生だったからまだ良かったが、「愛が挟み撃ち」では中年夫婦であり、不妊を乗り越えるということ生々しさが伴う。

生まれ来る子供という可能性の象徴を描ききる、ラストの怒涛の3ページは衝撃が強い。僕は、言葉にしあぐねる青春が、言葉によって表されるこの小説を好むが、青春を抱えたまま中年になるのは、ただただ嫌だなと思う。



文學界2017年12月号

文學界2017年12月号

 

 

沼田真佑『影裏』

僕が芥川賞を読むのは、だんだんと義務感によってきた。半年に一度の賞で、毎度、新人の傑作が現れるようには思えないからだ。
最新の受賞作、沼田真佑の『影裏』は、文學界新人賞のデビュー作で芥川賞となった。しかし、小説の優劣とは関係なく、芥川賞の受賞作の連なりの中では、極めて地味な作品である。こういった小説を引き上げることができるのは、半年ごとに賞がある良い点でもある。

『影裏』は小さな小説である。
小説は、かつては文字通り、小さなものだったのかもしれない。でも、いまや小さな小説なんて誰も読まない。地味だからだ。そもそも小説なんて誰も読まないものになりつつある。その理由も地味だからだ。
小さな小説では、大部が省略される。必要最小限の配役と背景描写で書かれる。この小説でいえば、冒頭の渓流釣りの場面で必要最小限が描かれる。
岩手の美しい自然と、釣り友達の男の性格である。雄大な自然の中での友人との関係の物語なのだなとわかる。(正確に言えば、読者が小さな小説だと認識してからである)

このような冒頭での理解が、小さな小説の弱みである。関係性から先の展開がなんとなく予想されてしまうのである。
作者が何を省略し、過不足なく小説とできるかは、読者の持つ背景知識に依存する。たとえば、ある小説に曖昧な距離感を持つ男女が出てきたら、読者は男女関係の話と察することができる。
簡単に先読みできてしまうことと、読者の理解によって省略が可能になることのあいだで、橋渡しすることは、作家にとっての大きな仕事である。
そこで、主人公がゲイであることが仄めかされる。すると、小さな小説の定跡が別の定跡へと外れて、省略された大部に、読者の異なる想像力が働く。
これもまた何が省略されているかの想像は、読者に委ねられる。そのため読者の時代的、空間的なリテラシーにより、大きく理解が異なる。
では、このあとの展開には、冒頭から予測されている友人のカタストロフィーがあるが、そこからは何が見出されるのだろうか? それがこの小説を読ませる駆動力となる。

 

親密なつき合いのうちにも、日浅のその、ある巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向はいっこうに薄れる気配がなかった。(略)ものごとに対し、共感ではなく感銘をする、そういう神経を持った人間なんだとわたしは独り決めにして面白がっていた。

 

小さな小説の面白さは、こういった省略された事柄への理解にある。ただし、一方では、ある種のエリート主義にも見える。描かれていない全てを知っているように感じられるからだ。

芥川賞の選評の中で、吉田修一の評がもっとも率直で良く思えた一方で、村上龍の評は「わかってる」読者の代表のように見えた。
僕がこのようにして感想を書いているのは、残念ながら村上龍的な態度に近い。
思い巡らす想像力に対して、本文中の言葉を借りて、「共感よりも感銘をする」。
『影裏』は良い小説である。マイノリティの主人公の想像もかき立つ。しかし「感銘をする」という距離感を超えるまでには至らなかった。どうしても地味な小説は物足りないのである。

 

影裏 第157回芥川賞受賞

影裏 第157回芥川賞受賞