僕帝国幻想

見知らぬ場所にいる人間には、どうして憧れてしまうのだろう

沼田真佑『影裏』

僕が芥川賞を読むのは、だんだんと義務感によってきた。半年に一度の賞で、毎度、新人の傑作が現れるようには思えないからだ。
最新の受賞作、沼田真佑の『影裏』は、文學界新人賞のデビュー作で芥川賞となった。しかし、小説の優劣とは関係なく、芥川賞の受賞作の連なりの中では、極めて地味な作品である。こういった小説を引き上げることができるのは、半年ごとに賞がある良い点でもある。

『影裏』は小さな小説である。
小説は、かつては文字通り、小さなものだったのかもしれない。でも、いまや小さな小説なんて誰も読まない。地味だからだ。そもそも小説なんて誰も読まないものになりつつある。その理由も地味だからだ。
小さな小説では、大部が省略される。必要最小限の配役と背景描写で書かれる。この小説でいえば、冒頭の渓流釣りの場面で必要最小限が描かれる。
岩手の美しい自然と、釣り友達の男の性格である。雄大な自然の中での友人との関係の物語なのだなとわかる。(正確に言えば、読者が小さな小説だと認識してからである)

このような冒頭での理解が、小さな小説の弱みである。関係性から先の展開がなんとなく予想されてしまうのである。
作者が何を省略し、過不足なく小説とできるかは、読者の持つ背景知識に依存する。たとえば、ある小説に曖昧な距離感を持つ男女が出てきたら、読者は男女関係の話と察することができる。
簡単に先読みできてしまうことと、読者の理解によって省略が可能になることのあいだで、橋渡しすることは、作家にとっての大きな仕事である。
そこで、主人公がゲイであることが仄めかされる。すると、小さな小説の定跡が別の定跡へと外れて、省略された大部に、読者の異なる想像力が働く。
これもまた何が省略されているかの想像は、読者に委ねられる。そのため読者の時代的、空間的なリテラシーにより、大きく理解が異なる。
では、このあとの展開には、冒頭から予測されている友人のカタストロフィーがあるが、そこからは何が見出されるのだろうか? それがこの小説を読ませる駆動力となる。

 

親密なつき合いのうちにも、日浅のその、ある巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向はいっこうに薄れる気配がなかった。(略)ものごとに対し、共感ではなく感銘をする、そういう神経を持った人間なんだとわたしは独り決めにして面白がっていた。

 

小さな小説の面白さは、こういった省略された事柄への理解にある。ただし、一方では、ある種のエリート主義にも見える。描かれていない全てを知っているように感じられるからだ。

芥川賞の選評の中で、吉田修一の評がもっとも率直で良く思えた一方で、村上龍の評は「わかってる」読者の代表のように見えた。
僕がこのようにして感想を書いているのは、残念ながら村上龍的な態度に近い。
思い巡らす想像力に対して、本文中の言葉を借りて、「共感よりも感銘をする」。
『影裏』は良い小説である。マイノリティの主人公の想像もかき立つ。しかし「感銘をする」という距離感を超えるまでには至らなかった。どうしても地味な小説は物足りないのである。

 

影裏 第157回芥川賞受賞

影裏 第157回芥川賞受賞

 

 

はじめて読むドラッカー

「成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」

 

僕がドラッカー(1909−2005)に触れて、強い印象を受けたのは、『マネジメント』における上記の一文である。
ドラッカーを読んだ事がなく、昔のビジネス書の書き手と思い込んでいたが、強い政治的目的が根本にあった。
ウイーンで生まれ、ナチス支配のドイツからイギリス、アメリカへと移ったというドラッカー自身の経歴から書かれているものが大きいのだろう。

自由な個人が、自由な社会を作る。
個人には、社会における位置と役割があり、その正統性を担うものとして組織がある。このボトムアップアプローチとして、マネジメント論がある。マネジメントの語感の与える印象とは異なり、上に立って実践するものだけではない。
ドラッカーを読む価値があるのはマネージャーだけではなく、責任あるビジネスマンならば誰でもだ。まして、ドラッカーのいう知識労働者に当てはまるのならば尚更である。

『はじめて読むドラッカー自己実現編】 プロフェッショナルの条件 ――いかに成果をあげ、成長するか』は、タイトル通りちょうどはじめて読むにはピッタリの本である。
マネジメント論が要請されるまでには2つの軸があり、時代的な社会環境から通じる希少な資源としての知識と、自己啓発的な個人の強みを生かす方法から成る。

本書のPart1「ポスト資本主義への転換」「新しい社会の主役は誰か」では、時代的な変遷から、現代では知識労働の生産性こそが重要と説く。
資本主義と産業革命に至る技術革新の時代は長く、社会主義が予見され革命に至る中で、生産性が劇的に向上したのは技術革新自体ではなく、それが可能にした教育訓練による後期においてである。
科学的管理法の父といわれるフレデリック・ウィンズロー・テイラー(1856−1915)は、工程の標準化と教育訓練を通じて、近代の生産性の向上の礎を作る。
テイラーは、生産性の向上は、労働者が多くの収入を得るためとし、決して資本家のためといわなかった。
これが労働者の賃金上昇と余暇の拡大、教育や医療といった生活水準の向上につながる。ドラッカーは、社会主義の失敗は、このようにして革命を担うはずの労働者階級が中流になったためという。
しかし、テイラー自身は、資本家よりも労働者のためにしたものの、労働組合とは反目して、反資本主義者というレッテルを貼られることになるのだが。

さて、ドラッカーがポスト資本主義と呼ぶ現代に至ったのは、テイラーが達成したように知識を仕事に適用するようになり、さらに知識を知識が成果になることへと適用するマネジメントが重要になったからである。
さらなる技術革新が基礎となって、ポスト資本主義においては、土地・天然資源・労働・資本よりも知識が中心的な資源と成る。
その中で、知識が競争力の源と成るためにマネジメント論がある。組織の経営管理者、つまりマネージャーは「知識の適用と、知識の働きに責任をもつ者」として定義される。

では、知識を適用し、成果につなげるようにするにはどうしたらよいか。組織は、はっきりとそのためにある。組織は決して、組織自体のためにはない。そして、組織では個人が強みを生かし、組織自体もまた強みを生かすものとされる。
Part2以降では、そのために個人が実践できる方法が書かれている。
たとえば「目標は何かを問うことが重要」といった具合に、ここに至るとドラッカーは極めて当たり前のことばかりを言っているように見える。
だが、この根本には、自由な社会をつくるという政治的な目標があることを忘れてはならない。
社会があり、組織があり、そのための個人がいるという思想とは間逆である。また、企業についてであれば、利益を目指すという目標とも反対に考える。
個人には性質があり、強みと弱みがある。個人の強みを生かし、弱みを無効化するものが組織である。その組織を成り立たせる前提として、企業ならば利益があることが、組織の目的を継続して行うための責任である。
組織自体もまた社会の中で強みを生かすために単一の目的を持つものである。
そこでドラッカーが問うのは、「組織の使命は何か?」「顧客にとっての価値は何か?」ということである。

ポスト資本主義において、最も希少な資源である知識こそが競争力につながる。組織が知識を成果に向けて適用することがマネジメントであり、それは知識労働者たる個人が強みを生かし、弱みを無効化することである。
そうでなければ、希少な資源を浪費しているに過ぎない。
このことは、知識労働者により専門に先鋭することを促している。
専門家した知識労働者は、その専門において最も優れた意思決定者でなければならず、組織の中の役職によらない。
その意味で、知識労働者は意思決定者としての自身をマネジメントする術を覚え、行動とそれに伴う責任を実践し、成果につなげなければならない。また、専門分野を一般分野に通じるように知識社会の代表たりえなければならない。
そのような知識労働者を統括するマネージャーは、かつてであればゼネラリストとして様々な専門分野に通じた博学であったが、いまでは多様な専門分野に理解を示すことができる組織社会の代表者が求められる。(かつ、MBAといわれるような経営学分野の専門家でもある)

このように、ドラッカーのマネジメント論は、マネージャーだけではなく、知識労働者たる個人も範囲に含む。
現代において、もっとも希少な資源は、成果を出せる知識労働者である。
総括すれば、極めてシンプルに、個人や組織あらゆる単位において、強みを生かし、弱みを無効化することにある。
個人にとっても、強みを生かすことは社会における位置と役割を築き、尊厳となるものである。
次世代を担う教育ある人間はこれを理解し、知識社会と組織社会の両方に通じ、橋渡しできる人物であるだろう。
その一方で、ボトムアップアプローチによる専門の先鋭化では、それぞれの組織が強みを生かしながらも、競争し合う場面で、社会の利益を定義することは困難である。
しかし、ドラッカーは自主性のある自由な個人を信じているように見える。
ドラッカーマーケティングを必要としない。「顧客の価値は何か?」と問うことから、需要が生まれるからである。また、変化に対する最善の対応は、変化は自身が作り出すものとする。NPOのための組織論に筆が向いたこともある。
僕には、ドラッカーは理想論に振りすぎているように見える。しかし、技術革新が現在の世俗主義に流れるものだとすれば、一方に成果を出そうとしている人々が理想論に基づいて意思決定をするならば、それは善きことなのだろうとも思うし、それゆえに実践しようという気にもなる。

 

 

 

『数学者たちの楽園』サイモン・シン

アメリカのアニメ『ザ・シンプソンズ』といえば、黄色いキャラクターは見たことあるというくらいの知名度ではなかろうか。そして、どうせくだらないアニメなんだろうという偏見を持たれている。ところが、このアニメを作っているのは、数学の天才たちなのだという。

『数学者たちの楽園 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち』は、科学ジャーナリストサイモン・シンが、広く知られたアニメに隠された数学の秘密を掘り起こす一冊である。

 

1990年のシリーズ第一話「天才バート」から数学ネタは登場する。IQテストをごまかしたバートが、天才たちの小学校に転校させられるが、同級生や先生の話す数学ジョークをまったく理解できない。

シンプソンズの脚本家チームには、多くの理系の修士・博士がおり、大学や研究所からコメディーアニメの脚本家に転身した者もいる。

科学や数学のアニメでは全くないシンプソンズだが、アニメの背景に映る一コマのジョークにまで、彼らのバックグラウンドが活きる。バートの父、ホーマーが黒板に書いた一式、

398712+436512=447212

は、なんとあのフェルマーの最終定理を解いているのである。

フェルマーの最終定理』は、本書の著者サイモン・シンの代表作でもあるが、1637年頃、ピエール・ド・フェルマーが紙の余白に書いた

xn+yn+zn (n>2)

 

を満たす整数はないという定理である。

フェルマーが証明を墓場に持っていた遥か後、1995年にアンドリュー・ワイルズによってそれは証明されたが、ホーマーはその反例を見つけ出したのである。

 

この本は、「シンプソンズ家の謎」みたい類の本ではない。シンプソンズを題材にし、ときにはそこからも離れて、さまざまな数学の逸話がでてくる。

僕が興味を惹かれたのは、1897年に円周率πが3.2であることを発見したインディアナ州の医師の話である。州の法案で、インディアナ州の学校は無料でπが3.2であることを教えてよいが、ほかの州の学校がπを3.2として教える場合は使用料を取ることを提案する。それだけでも驚きだが、しかも、なんとその法案は下院を通過するのである。

 

ザ・シンプソンズ』から派生して作られたアニメ『フューチュラマ』では、宇宙SFという世界観から、より数学的、科学的な話が出てくる。小さい無限と大きい無限の比較や、メビウスの輪クラインの壺のようなフラクタル次元の話がネタにされ、さらには私たち入れ替わってる系のドタバタ劇から、複数人の任意の入れ替えを効率的に解く定理が作られて論文誌に載るようなことまで起こっている。

 

ザ・シンプソンズ』と『フューチュラマ』の脚本家の一人、デーヴィッド・X・コーエンは、このように語る。

長年のあいだに『ザ・シンプソンズ』に盛り込んできた数学のすべてに対して、大きな満足を感じているという。

「いい気分だよ。テレビ業界にいると、社会を腐敗させる片棒を担いでいるような気分になることもある。だから、話のレベルを上げる機会があると――とくに数学の素晴らしさを伝えられたときは――下品なジョークを書いているときの暗い気持ちが晴れるんだ」

「本音のところでは、自分は研究者として一生を送りたかったのかもしれない。それでも『ザ・シンプソンズ』と『フューチュラマ』は、数学と科学を楽しいものにしているとは思っているし、そのことで新しい世代に影響を及ぼせるんじゃないかとも思っている。そうして影響を受けた人たちの中から、わたしがやれなかったことをやってくれる人が出るかもしれない。そう思えば慰めにもなるし、これで良かったと思えるんだ」

 

 

数学者たちの楽園: 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち

数学者たちの楽園: 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち

 

 

「塔と重力」上田岳弘

僕にはハルキスト持論はある。日本の文学好きに一番読まれているの作家が村上春樹なので、小説に少しでもそれっぽいところがあれば、春樹風と言われてしまうことである。

さて、上田岳弘の「塔と重力」は、そんな春樹風と言われてしまうような小説である。

 十七歳童貞の田辺は、大震災で倒壊したホテルに生き埋めになる。田辺の命は助かるが、初恋の相手の美希子は亡くなる。その後、上京してできた友人、水上とFacebookを通じて十五年ぶりに再会する。かつて、自殺から命を救われた水上は、田辺のことを創造主と呼び、死んだはずの美希子を紹介する「美希子」アサインを始める。 

女好きで、田辺の思考をなぞる鏡写し的で導き手となる水上のキャラクターや、差し込まれる塔と重力の話、いないはずの女と重ね合わせるような内省的情交。そういったモチーフが、作品の半分を春樹風に読ませるが、作中では「神ポジション」というキーワードにこれらは集約される。

上田岳弘はデビュー以来、神小説ばかり書いてきた。この「神」は、超時空スケールで、全知全能な神的な語り手が出てくるという意味だ。「塔と重力」でも、「神」と言われるが、過去作に比べるとレベルの低い「神」である。せいぜい、Facebookで「いいね!」をつけまくるFacebook神くらいである。

その点では、上田岳弘の神を奉る一ファンとしては、拍子抜けするところはあるが、過去のニ作で達成されなかった二つの結末がクロスオーバーする感動がある。

一作は、全知全能の生まれ変わりとして、人類史を総括して地球を何周もして、ただ一人の恋人と出逢う「私の恋人」。もう一作は、暇を持て余した神々の遊びが、すべての人の意識をつなげて大震災へと至る「異郷の友人」。

神々しくやり過ぎたこの二作と、「塔と重力」はつながってはいないが、作中の個人に寄り添ったことによって、二つのテーマを見事に完結させている。ということで、一連の神小説は区切りがついて、いよいよ、次作は神から離れた小説を書くような、作家の転回があるのではないか。



余談。芥川賞は神が力を及ぼすのがお好きではない。芥川賞は離れがお好きである。純文三冠を取るならば、神ではなく、離れを書いてみてはいかがだろうか。もっとも、三島賞を超高速でとって、芥川賞なんてとっくに通過しているレベルの作家ではあるが。


余談2。挿話で出て来るルービックキューブみたいなおもちゃの描写が全くわからないが、僕はこれを持っているのでよくわかる。ロジャー・フォン・イークのball of whacksですね。

 

 

 

新潮 2017年 01 月号

新潮 2017年 01 月号

 

 

『しんせかい』山下澄人

最新の芥川賞作、山下澄人の『しんせかい』は、幻のような小説である。

似ているような小説がほかにありそうだけどない、新奇な小説で、芥川賞にはふさわしいように思う。

あらすじは青春小説そのもので、また主人公の名が作者の名である通り、私小説でもある。

 19歳の山下スミトは、俳優を目指し北海道へと渡る。【先生】の塾で学びながら、同期生らと【谷】で農作業や自分たちの住む家を建てたりといった共同生活を過ごす。

 物語は非常に読みやすく、【先生】からの学び、【谷】での同志らとの生活、故郷にいる女友達との関係、の3つの筋が順番にらせんを描きながら進んでいく。

一方で、細部には記憶の曖昧さや、時空間の飛躍が引っかかる。曖昧さは、作中の事実や人間関係への影響だけでなく、小説全体へと次第に波及していく。スミトは谷の人間関係に対して淡白で、自身のことにも曖昧で傍観者のようにいる。

青春小説では、登場人物の何らかの変化の過程を描くものとして期待される。しかし、スミトのこのような態度からは、青春小説的な変化は見出されず、期待は裏切られる。(青春小説の形をとりながら、その要素を否定していくところは、山下と同じように劇作家出身の前田司郎の青春小説『愛でもない青春でもない旅立たない』という題名通りの作が思い出される)

私小説という面においても、自分自身のことならばはっきりと書けるはずなのに、冒頭の場面から記憶の曖昧さを書いている。また自身の事実を振り返るという視点を直接的に持たない。最終的には、私小説であることを否定する。でも、主人公は自身の名前だし、本の題字は【先生】であるところの倉本聰が書いている。

青春小説であり私小説であるかのように書かれて、そうではないといった仕掛けは、作者の経歴を青春小説の形をとった作り話に置き換えたというふうに言える。あえて、青春小説でもなければ、私小説でもないようしたのは、どうしてだろう?

 

この疑問を別の作家と比較して考えてみたい。

芥川賞からは忘れられている作家である青木淳悟は、あらゆることを小説に変えることのできる、マジシャンのような小説家である。三島賞受賞作の「私のいない高校」は、留学生の受け入れ記録を小説にしたものだし、グーグルストリートビューを題材にした「Tokyo Smart Driver」のような小説もある。彼の手にかかれば、小説にできないものなんてないといった風で、そのことを通じて小説とはいったい何なのかと混乱させられる。

青木の場合、その元ネタに対して、小説らしさという輪郭をなぞって書く。ただし、その小説らしさというのは小説によって違うわけなので、一筋縄にはいかない。たしかに小説らしいのだけれども、小説らしさを作る要素を、決まりきって分けることはできない。(いつか日本語小説家人工知能を作るなら、青木淳悟AIを目指すべきだ)

何かを小説に置き換えるというプロセスによって書く場合、どのようにして小説にするのかは作家は意識するはずだ。エッセイなどにしてもよく、小説とする必然性を求めるからだ。青木の「私のいない高校」を例にとれば、学校の記録であって小説じゃないだろうというところから、小説の定義っていったいなんだろうという表現の広がりが生まれる。

 

さて、「しんせかい」に話を戻すと、青木の試みる小説とは似ているようで正反対のように思う。小説を目指して書かれた結果、青春小説の表現や私小説の導入といった枠組みから、いずれ枠が外れていく小説になっている。

そう考えると、青春小説なのに青春していないとか、私小説なのにそうじゃないといった反応をするべきではなく、そのような輪郭を外していく技巧的な小説である(つまり失敗したら怒られる種類の小説)。

「しんせかい」は見た目に反して、青春小説でもないし、私小説でもない。曖昧さによって描かれたつかみどころのない幻のような小説なのである。

 

しんせかい

しんせかい

 

 

『世界でもっとも美しい10の科学実験』ロバート・P・クリース

歴史上でも重要な、これら10の実験をすべて知っていた人は意外と少ないのではないか。

僕が初めて知る実験もあった。1つ目の実験、「エラストネスによる地球の外周の長さの測定」は紀元前3世紀のギリシャで行われた。この実験における、重大なパラダイムは、地球は球形であると仮定したことだ。地球は丸いという話は、天動説と地動説にまつわるコペルニクス的転回として知られるが、それよりも遥か昔、エラストネスの1世紀前にアリストテレスも地球は丸いと知っていた。

さて、エラストネスは日時計の針の指す影の長さが、南北によって異なることに着目した。ある同じ時刻の異なる場所での影の長さをもとに、地球の外周の長さを導き出した。

興味深いことに、古代中国でもこのことは知られていた。しかし、『淮南子』の著者は、地球は平らだと仮定していたため、同じ実験をして、太陽との高さの差がわかるとしたのだ。

 

この本の面白さは、科学史と哲学の専門家である著者が、実験と美について往復しながら考えていることだ。単なる実験の話にとどまらず、美についての哲学を科学実験を通して捉える。先のエラストネスの実験について書かれた次の章は、Interludeとなっているが、「なぜ科学は美しいのか」である。

中でも興味深かったのは「科学とメタファー」という章で、光が波であると示したヤングの実験のあとに置かれている。科学は、事実そのもを扱うのであって、何に似ているかというメタファーを扱うのではない、という考えがある。一方で、人はメタファーによって考えを深めている。この対立は、メタファーという言葉がすべて同じ機能を持つわけではない、ということによって解決できる。

科学におけるメタファーの機能を3つに分ける。第一に、フィルターとしての機能で、直観的にある特徴を抽出し、それ以外の要素を取り除く。第二は、創造的な機能である。ヤングが光は波であるといったように、あるものが何かに似ているということから、概念が拡張していく。第三には、何かに対する全体像を塗り替えることが挙げられている。

メタファーは文化と歴史に根差したものであるから、科学的といわれるような正確さを遠ざけることもあれば、理解を深めることにも役立つ。光が波であるという、簡明なアナロジーは、美しいと感じることにもつながることである。

 メタファーとアナロジーはまさに、人類が受け継ぎ発展させてきたことのすべてを利用して、自らを未来へと投企するための方法なのである。教育と経験は人の心をメタファーで満たし、人はそれを新しいものに注ぎ込まずにはいられない。そうすることで、既知のものを何か新しいものに変貌させるのだ。

 

そういった歴史的な連なりの中では、ラザフォードによる原子核の発見を扱った章は「わかりはじめることの美しさ」と題されている。この章では、発見に至るまでのプロセスに注目する。

20世紀のはじめ、ラザフォードはウランが二種類の放射線を出すという発見をする。透過性の弱いほうはアルファ線、強いほうをベータ線と名付けた。ベータ線は電子であることがわかったが、アルファ線は正の電荷をもつ謎の粒子であった。ラザフォードは、アルファ線を出すラドンを薄いガラス管に封入し、それをさらにガラス管に封入し、あいだの空間を真空にした。中にはラドンから放出されるアルファ線のみが入り込める。すると、その空間にガスがたまっていくことを見出し、それがヘリウム原子であることが分かったのだ。

さわりを紹介したが、原子核にはまだ遠い。原子(atom)はそもそも、分割不可能という言葉に由来しているのである。ラザフォードの研究は、原子核を見つけるために始めたものではなかった。

ラザフォードはアルファ線に関して、さらに発見をする。真空中でアルファ線のビームを感光紙にあてるとはっきりとした点になるが、空気中ではぼんやりとした点になる。空気中の分子に衝突して散乱するためと見出した。この散乱があるために、アルファ線電荷を測定することは困難であり、そのための遠回りを余儀なくされる。しかし、散乱があることが原子核の発見につながっていくのである。

ここから先の歴史は本書に譲るとして、この原子核の発見に至るプロセスは、科学的といわれるような決まりきった(再現性のある)プロセスを経て、論理的に決定されるというありがちな先入観とは離れている。探究的で偶然的かつインスピレーションによってもたされている。これは芸術のプロセスにずっと近いのではないか。

 

本書で挙げられている10の実験は、さまざまな美しさで形容できる。エラストネスの実験のような単純でエレガントなものから、ラザフォードらの複雑なプロセスによるものがある。あるいは、フーコーの振り子のように宇宙的壮大さを持ったものや、電子の二重スリット実験のようにあまりに神秘的なものもある。これらのイメージは科学から考えることによって引き出される。

科学を美しいと思うことは、普通にはまずないことだが、この本はそのように感じることがわかる良い手引きである。

世界でもっとも美しい10の科学実験

世界でもっとも美しい10の科学実験

 

 

『きみの言い訳は最高の芸術』最果タヒ

僕が最果タヒを知ったのは、『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』という素晴らしい題のついた小説で、それ以来、彼女の言葉に惹かれている。

初エッセイ集の『きみの言い訳は最高の芸術』には、共感や気づきや、あるあるといったモチーフを超えて、言葉にされにくかった感情が、彼女自身の言葉でありながらも、そこから離れようとする没個人的であろうとするかのように表れていた。

たとえば、下の一節。冬の寒い夜に、ひとりでこたつに入り、なにか音楽を聴きながら、駄菓子を食べつつ読んで、僕の中にある「孤独」という言葉が大きく広がっていくことに震える。

 

孤独というのはどこにもなくて、孤独がどこにもないというそのことだけが私を私にしてくれている。そして他人の孤独を理解できないという点で、私は他人に対して冷たくなる。生きているということそれだけでも奇跡なんだというならば、私は私として他人からはぐれて、さみしくひとりで暮らしていたって奇跡で、なるほどそれはそのとおりだな、と思っている。 (「さみしくなりたい」)

 

もし「ひとり暮らしは寂しいだろう」と言われれば、寂しいという感じとは違うのだという反発するような、人とか過去とかのかかわりや、趣味や生活のような私的な領域を囲い込もうとする大きく分類された(タグ付けされた)言葉に対して、一見冷めているような彼女の言葉は浸みいるのである。

自分の中にあって気づいているけれど、周りにはあえて見せたくはない、でも露悪的とはいえないような感情を、この本となら分かち合えるように思う。

 

きみの言い訳は最高の芸術

きみの言い訳は最高の芸術